概要
東海道の宿場町で、江戸期の町並みがこれだけまとまって残る例は他にない。電線を地中化し、看板も規制する。重要伝統的建造物群保存地区。
解説
関宿(せきじゅく、せきしゅく)は、江戸時代の日本の東海道の宿場のひとつ。旧伊勢国鈴鹿郡木崎村・関中町(関地蔵町)・新所村、現在の三重県亀山市関町木崎・関町中町・関町新所にある。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、往時の街並みが保たれている。「日本の道100選」にも選定されている。 東海道五十三次の47番目の宿場である。三重県の北西端、鈴鹿山脈の山裾に位置しており、2005年1月11日の亀山市との合併以前は関町であった。 古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。東の追分から西の追分までの約1.8キロメートルにわたり、伝統的な町家が200棟以上現存するなど、町並みがよく保存され、重要伝統的建造物群保存地区(昭和59年)と日本の道100選(昭和61年)に選定されている。 建物は塗屋造・真壁造で、二階建・中二階建・平屋建など、多様な町屋が存在し、変化のある町並景観となっている。 宿場の名は、愛発の関(越前国)・不破の関(美濃国)とともに「日本三関」に数えられ、670年頃に軍事上の目的で設置された「鈴鹿の関」に由来する。壬申の乱(672年)に大海人皇子(天武天皇)が、鈴鹿の関を閉ざしたことは有名である。 現在に続く関宿の町並みは、天正年間(16世紀末)に伊勢国領主で戦国武将であった関盛信が、領内の道路を改修したことに始まり、慶長6年(1601年)に徳川家康が行った宿駅制度によって、東海道47番目の宿場となってから本格的に整備された。東の追分で伊勢別街道を分岐し、西の追分で大和街道と分かれる立地条件から、旅人の通行も頻繁になり、江戸時代は宿場として大変賑わったといわれる。 天正20年には,御茶屋御殿屋敷屋舗があり、徳川家康の宿所としても使用されたが、寛永年間に廃された。 明治初期には、東海道の交通も多くなり、参宮客も加わり、関宿の繁栄は続いた。幕末より旅籠の数が、増えている。しかし、1889年(明治22年)以降、鉄道敷設が進み、1900年(明治33年)の名古屋駅-湊町駅間の全通、ついで参宮線の開通により、関町の宿駅としての機能はほとんど失われた。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
出典 ja.wikipedia.org ↗基本データ
創建・開館:江戸期 代表作・所蔵:1.8キロの宿場町、200棟の町家 ジャンル:建築
出典 ja.wikipedia.org ↗旅の前に知っておくこと
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