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多賀城跡

宮城県 · 多賀城市 · 美術・工芸

Taga Castle Ruins / 多贺城迹

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多賀城跡
写真:Saigen Jiro / CC0 · 出典 ↗
WHAT TO DO多賀城跡

古代の東北支配の拠点。日本三古碑のひとつ「多賀城碑」が覆屋の中に立つ。

WHERE宮城県

三陸沿岸 · 多賀城市

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概要

古代の東北支配の拠点。日本三古碑のひとつ「多賀城碑」が覆屋の中に立つ。

解説

多賀城(たがじょう)は、宮城県多賀城市にあった古代城柵。国の特別史跡に指定され(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)、出土品は国の重要文化財に指定されている。多賀柵(たかのき)とも。 奈良時代より陸奥国府や鎮守府が置かれ、平安時代(11世紀中頃)まで東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。 奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。周辺はかつて「潟の世界」が想定されていたが、BP1900~1500年にはすでに潟湖的環境は存在せず、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている。 創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、第4期は869年 - 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』にある貞観津波の「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の同書には「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほかに「府」あるいは「多賀国府」と記載。 多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定される。この国府のほか鎮守府が置かれ、政庁や食料貯蔵用の倉などを設け、附属寺院が築かれていた。霊亀2年(716)には、移民によって黒川以北十郡(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)が成立し、神亀元年(724)には陸奥国府は仙台郡山遺跡から多賀城に移された。

出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)

出典 ja.wikipedia.org ↗

基本データ

創建・開館:724年 代表作・所蔵:多賀城碑、政庁跡の礎石 ジャンル:古美術・仏教美術、書

出典 ja.wikipedia.org ↗

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出典 thm.pref.miyagi.jp ↗

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