概要
奥山半僧坊で知られる。五百羅漢が参道に並ぶ。
解説
方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。通称は「大仏」・「大仏殿」・「大仏殿方広寺」。 方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)の引き金となった「国家安康」の梵鐘を有する。 豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として文禄4年(1595年)に創建された。豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録によれば、6丈3尺(約19メートル)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7メートル)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。そのため江戸時代には、3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、日本三大仏の一つに数えられた。大田南畝著とされる『半日閑話』(街談録)には3代目大仏が落雷で焼失した時について「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也」とあり、3代目大仏の焼失は京都民衆に惜しまれた。東大寺大仏と異なり、3代目大仏は木造であったため、大仏は(台座・基壇を除き)跡形もなくなってしまった。 東大寺大仏殿の再建が完了した宝永6年(1709年)から、方広寺大仏・大仏殿が落雷で焼失した寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していた。江戸時代の東大寺大仏殿再建にあたり、方広寺2代目大仏殿を手本として大仏殿が設計されたことから、現存の東大寺大仏殿の建築意匠は方広寺大仏殿のそれを引き継いだものと考えられる。 天保14年(1843年)に規模が縮小されつつも再建された4代目大仏は、1973年(昭和48年)3月28日まで存続していたが、失火により焼失し、方広寺から大仏は姿を消した。 「方広寺」という寺号は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れず、単に大仏(殿)、もしくは新大仏(殿)、京大仏(殿)、東山大仏(殿)、京東大仏(殿)、洛東大仏(殿)などと呼称されていた。方広寺大仏を発願した豊臣秀吉は、正式な寺号を定めていない。方広寺命名の経緯・時期は不明だが自然発生的なものとされる。経典(大方広仏華厳経)もしくは方広会から採ったものともいわれ、またそれらにかこつけて秀吉の尊称「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
出典 ja.wikipedia.org ↗基本データ
創建:1371年 指定:重要文化財 ご利益:厄除け
出典 ja.wikipedia.org ↗旅の前に知っておくこと
世界の質問箱から、この資料に関係する疑問を3つ。
同じ県の神社・寺
訪問前の確認・参考資料
原資料を掲載しています。営業時間、見学可否、料金、交通は最新の公式情報で確認してください。
この県の工芸・名品
この記述はValue Villageが公開情報をもとに自分で書き起こしたものです。転載はしていません。 対応言語:ja / en / zh
静岡県の写真
この資料に関連する地域の参考写真です。掲載施設・商品の写真ではありません。
静岡県の Instagram 投稿(公式アカウントより)
この場所に結びついた投稿はまだありません。県の公式アカウントの投稿を毎分入れ替えて表示しています。

