概要
鎌倉市にある日帰り温泉。江の島と富士山を望む。
解説
稲村ヶ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市南西部にある岬で、由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にあたる。通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、地名としては住居表示に伴う町名変更で稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目となっている。 地名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだと言われている。古来良質な砂鉄が採取できることで知られ、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられる。 奈良時代の鎌倉には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、万葉集に、 と詠まれている。この地名がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していない。しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となる。 鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉に迫った(鎌倉の戦い)。 5月18日、新田軍は極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞自ら稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて太刀を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されている。ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている。 幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。 1928年(昭和3年)、県道片瀬鎌倉線(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地があった。 1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年には住居表示実施に伴う町名変更で旧大字極楽寺から分離され、稲村ガ崎一-五丁目となった。 現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成中学校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑(『真白き富士の根』の歌詞を刻む)、コッホ博士記念碑などもある。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
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