概要
若狭は都と日本海を結ぶ道の途中にあり、平安期の仏像が異様に多く残る。小さな寺が国宝級の仏を持つ。
解説
若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。 「若狭」の名称は、海の向こうからこの地に来た若い男女が、その後に年をとらなかったという「若さ」にちなんだと言われる伝承がある(『和漢三才図会』巻71所収『若狭国風土記』逸文)。 設置当初の7世紀後半には、若侠国と若佐国の2通りの表記があったことが藤原宮跡から出土した複数の木簡からわかっている。若狭国と書かれるようになったのは、8世紀に入ってからでおそらく国印が鋳造された大宝4年(704年)からである。 律令制で律令国家が成立する前の若狭地方は、若狭国造の領土だったと言われており、日本書紀には若狭国造や都怒我阿羅斯等の記述がある。 ヤマト王権の支配下に入った4世紀以降上記の国造が設置され、7世紀には律令国としての若狭国が設置された。当初は遠敷郡と三方郡から成ったが、 天長2年(825年)7月10日に遠敷郡の西部が大飯郡として分立して、以後は3郡となった。 奈良時代、ヤマト王権の日本海側入口として、海産物を朝廷に多く献上したために、「御食国」に該当すると推定されている。調・庸で塩を納めるよう定められ、8世紀には製塩が非常に盛んであった。(塩を京に運んだことを示す木簡で1990年代までに見つかった129点のうち、若狭国は第1位で49点、38%を占める。) 奈良の東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来する祭である。平安時代から江戸時代まで、若狭地方は京都の外港として発展した。 平安時代、平治の乱以降、伊勢平氏が権力を握ると、若狭国国守は平氏一門により独占された。 鎌倉時代には執権である北条氏自身が守護職を務めていたが、元弘3/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府と北条氏の滅亡後は、北条氏を倒し武家の棟梁となった足利氏の最有力支族である斯波氏など、その時代時代の室町幕府の実力者か、それに連なる人物が京に近い若狭の守護職を得た。 室町時代初期の貞治5年/正平21年(1366年)の一色範光の補任以降は一色氏が若狭守護を世襲するようになるも、永享12年(1440年)に丹後・若狭守護一色義貫を6代将軍足利義教の命により誅殺した安芸国分郡守護の安芸武田氏の武田信栄が、若狭守護職を獲得して若狭国を本拠とし若狭武田氏となった。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
出典 ja.wikipedia.org ↗基本データ
創建・開館:平安期 代表作・所蔵:羽賀寺の十一面観音、多田寺・妙楽寺の仏像 ジャンル:古美術・仏教美術、彫刻
出典 ja.wikipedia.org ↗旅の前に知っておくこと
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