概要
陸繋砂州の上に築かれた城。海に挟まれた細い地形をそのまま防御に使う。
解説
富岡城(とみおかじょう)は、熊本県天草郡苓北町富岡(肥後国天草郡)にあった日本の城。本丸跡に熊本県富岡ビジターセンターが整備され、櫓・高麗門なども復元整備されている。 富岡城は天草下島の北西、砂州で繋がった陸繋島の富岡半島の南東部の丘陵上にある梯郭式の平山城である。城の南には堀の役割を果たした袋池があり、東部には砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となって海からの外敵を防衛する役割を果たしていた。また、陸からの攻撃は砂州のみしかない。極めて攻撃し難い天然の要害を形成していた。 1994年(平成6年)より城の発掘・復元が計画され、国立国会図書館にある『肥前甘艸富岡城図』をもとに丘陵上の本丸に復元作業が行われた。2005年(平成17年)3月復元作業が終了し石垣や櫓が復元された。本丸の櫓は展示施設「富岡ビジターセンター」となり、天草の歴史・文化・自然などが紹介されている。 慶長5年(1600年)天草郡を含む肥後南部を領していた小西行長は、関ヶ原の戦いにおいて西軍方に参陣し敗れた。このため所領は没収され、翌年の慶長6年(1601年)東軍に参陣し功績のあった唐津城主・寺沢広高は天草郡4万2千石を与えられた。広高は肥前唐津から離れたこの地を治めるために、慶長7年(1602年)から慶長10年(1605年)にかけて富岡城を築き城代を置いた。 寛永14年10月28日(新暦1637年12月14日)、藩による重税とキリシタン迫害に堪りかねていた天草の領民は、数日前に代官を殺害した島原の領民に呼応、ともに天草四郎を盟主として蜂起し、島原・天草一揆が始まった。富岡城代の三宅籐兵衛は1,500人の唐津藩兵を率いて、本渡に出向き一揆軍との戦闘が繰り広げられた。しかし数に勝る一揆軍により11月14日(新暦12月30日)に三宅籐兵衛は討ち死にした。11月19日(新暦1638年1月4日)、一揆軍は富岡に迫り城下町と城を攻撃した。戦死した城代に代わり原田伊予が指揮を執り、猛攻によく耐え11月25日(新暦1638年1月10日)には一揆軍を撤退させた。一揆軍は海を渡り原城に立て籠もる島原の一揆軍と合流し、天草での戦闘は終了した。寛永15年2月28日(新暦1638年4月12日)、原城に立て籠もった一揆は鎮圧された。しかし、一揆の勃発を許した堅高(唐津藩2代藩主)は天草郡を没収された。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
出典 ja.wikipedia.org ↗基本データ
創建・開館:1602年 代表作・所蔵:砂州の上に築いた城、天草灘の眺望 ジャンル:建築、野外・ランドアート
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