概要
丘の上に段状に築かれた城。発掘でローマ帝国とオスマン帝国のコインが出土し、交易圏の広さが議論になった。世界遺産。
解説
勝連城(日本語:かつれんじょう、琉球語(沖縄語):かっちんぐすく)は、沖縄県うるま市にあったグスク(御城)の城趾である。阿麻和利の城として有名。 城は勝連半島の南の付け根部にある標高60mから100mの丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪を備える(曲輪は郭とも言う)。一から三までの曲輪が階段状に連なり、一の曲輪が最も高い。 城の南側に南風原集落(南風原古島遺跡)が広がり、交易のための港を備えていた。城の北側は田地として穀倉地帯であった。 城内の「浜川ガー」(はんがーがー)は、7代目城主濱川按司の女(むすめ)、真鍋樽が身の丈の1つ半の長さもある長髪を洗髪した。 二の曲輪には正面約17m、奥行き約14.5mほどの比較的大きな舎殿跡が発見された。等間隔に柱が並び礎石もある社殿であったと推定されている。また城が構築された時代の屋根は板葺きが主流であったが、大和系の瓦も付近から発見されている。 勝連城は、14世紀初頭に英祖王統2代・大成の五男、勝連按司によって築城された。 そして、この城の最後の城主・阿麻和利(10代目勝連按司)は、圧政を敷き酒に溺れていた9代目勝連按司の茂知附按司に対してクーデターを起こし殺害、この地方の按司として成り代わり海外貿易などを推し進めますます力を付けた。阿麻和利は護佐丸・阿麻和利の乱で護佐丸を討ち取ったのち、尚泰久王をも倒そうと琉球の統一を目論んだが、1458年に王府によって滅ぼされた。 城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田国男は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと『おもろさうし』にあるように、浦添・首里・那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべき物が有った。 城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られてきたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰にともない即日、国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月首里城跡等と共に、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
出典 ja.wikipedia.org ↗基本データ
創建・開館:1400年代 代表作・所蔵:世界遺産、海に突き出す丘の上、ローマのコインが出土 ジャンル:建築、金工
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