概要
「やくじんじゃ」と読む。屋久島の岳参りの起点。
解説
益救神社(やくじんじゃ)は、鹿児島県熊毛郡屋久島町(屋久島)にある神社。式内社で、旧社格は県社。多禰国の一宮。 『延喜式』神名帳に記載された神社のうち最も南に位置する。現在は「やく」と読むが、かつては「ますくひ」「すくひ」と読んだ。旧称は「須久比ノ宮」「一品宝珠大権現」。 天津日高彦火火出見尊 (あまつひこひこほほでみのみこと) 海幸山幸神話に登場する「山幸彦」。 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと考えられ、かつては島内各地に三岳の遥拝所があった。明治維新までは、旧村18か所に村落名を冠した益救神社があったが、現在は宮之浦の当社を除けば原集落にある原益救神社(屋久島町 原721-2)のみとなっている。また、宮之浦岳の山頂には当社の奥社がある。 創建の由緒は不詳。 『日本書紀』舒明天皇元年(629年)4月1日の条には田部連(たべのむらじ)を掖玖(やく、屋久島)に遣わしたとの記事がある。『日本書紀』天武天皇8年(679年)11月23日の条にある種子島へ使者を遣わした記述と比べ、屋久島への使者が50年も早いことから、屋久島が南海航路の目標として重要だったことを裏付けていると考えられている。さらに、『続日本紀』天平勝宝6年(754年)2月20日の条では、天平7年(735年)に高橋連牛養(たかはしのむらじうしかひ)を南島に遣わし、島名・港・湧水地などを記した牌を建てさせて遣唐使船の漂着に備えさせたと記述されており、当社の別名「スクイ」は、益救(屋久)の救の字の訓を誤ったものとの見方がある一方で、この牌すなわち澪標(みおつくし)の「ツクシ」が訛ったもので、当社の機能的由来をよく表した語だという『式内社調査報告』の説もある。 8世紀から9世紀初頭にかけて屋久島と種子島が多禰国であった時代は、当社がその一宮であったと伝えられる。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大隅国馭謨郡に「益救神社」と記載されたが、これが当社の文献上における初出とされている。これにより小社に列し、また最も南にある式内社となった。 戦国時代、屋久島は種子島氏の所領となったが、種子島氏は法華宗を重視したことから当社は衰微し、所在も不明となった。屋久島の宗教は律宗であったが、文明元年(1469年)ごろには法華宗になった。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
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創建:不詳(古代) ご利益:山岳信仰
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