概要
志貴皇子の山荘跡に建てられたと伝わる寺。萩と五色椿で知られる。
解説
白毫寺(びゃくごうじ)は、奈良県奈良市白毫寺町にある真言律宗の寺院。山号は高円山。本尊は阿弥陀如来。開山は勤操と伝える。 奈良市街地の東南部、春日山の南に連なる高円山の山麓にあり、境内から奈良盆地が一望できる景勝地に建つ。なお、寺号の「白毫」は、仏の眉間にある白い巻毛のことである。 白毫寺という寺号が史料にみられるのは鎌倉時代以後のことで、当寺の草創については明確でない。伝承によれば当寺の地には奈良時代の和銅年間(708年 - 715年)に志貴皇子の山荘があったとされ、境内には志貴皇子の歌を刻んだ万葉歌碑が立っている。菅家本『諸寺縁起集』によれば、当寺は空海の師である三論宗の僧・勤操によって高円山麓に建てられた岩淵寺の子院であったという。 『南都白毫寺一切経縁起』(建武2年・1335年)によれば、当寺は叡尊(興正菩薩)によって再興されたという。叡尊(1201年 - 1290年)は真言律宗の祖であり、奈良の西大寺を中興したほか多くの寺院を中興し、社会事業を行ったことで知られる。同縁起によれば、中興第二祖の道照は弘長元年(1261年)に一切経を請来し、翌弘長2年(1262年)に寺内に経蔵を建ててこれを収めたという。それにより、当寺は別名として一切経寺とも呼ばれるようになった。興聖寺に残る承久2年(1220年)の経巻の跋には「白毫寺一切経之内」とあり、これが史料上の「白毫寺」の初見とされている。当寺には、本尊の阿弥陀如来像や閻魔堂に安置されていた閻魔王とその眷属像(太山王像、司命・司録像)など、鎌倉時代作の仏像群が現存している。 『大乗院寺社雑事記』によれば、明応6年(1497年)に当寺は古市氏と筒井氏の兵火に巻き込まれ、当時存在した本堂、閻魔堂、多宝塔、一切経蔵などの堂宇をことごとく焼失したという。前述した鎌倉時代の仏像は安置されていた堂宇から持ち出されて現存するが、その際に焼損をこうむっており、太山王像の像内には兵火の翌年の明応7年(1498年)の修理銘がある。 『続南行雑録』という史料によれば、当寺は永正17年(1520年)にも古市氏と筒井氏の兵火に巻き込まれて焼失している。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
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