概要
高遠の石工は全国に出稼ぎに行き、各地に石仏を残した。守屋貞治は生涯で336体を彫ったと記録される。
解説
高遠石工(たかとおいしく)は、信濃国高遠(現長野県伊那市高遠町)の石工集団である。 高遠石工は、文治3年(1187年)に源頼朝から代々石細工職人として日本国内で仕事が出来るとの許可をもらったものとの由緒書が伝わっているが、発祥は中世頃と推定されている。由緒に基づき、全国を行脚しており、現在の青森県から山口県まで旅稼ぎをしていた。 天正末期、徳川家康の命で江戸城工事に従事し、八王子付近に定住していたことが『新編武蔵風土記稿』に記載されている。鳥居氏の所領だった(1636年〜1689年)の間の高遠地方旧記の引き継ぎ目録に記録が残っている。元禄4年(1691年)に内藤清枚が藩主となると、藩の財政難解消策の一環として出稼ぎが奨励されるようになった。明和4年(1767年)には「他国稼ぎ御改め帳」が発行されるなど、石工が全国を回っていたが、それは「旅稼ぎ」といわれ、藩には運上金を1人年1貫文(千文)を収め決まりとなっておりお高遠藩にとっては重要な収入源だった。 文化8年(1811年)の記録では領内の主要な産業として保護、統制を受けており、職人団体の中で運上金上納額最高が石切職人だった。 その存在が日本全国に知られるようになったのは江戸時代、17世紀半ば頃のことであったとされる。彼らは日本の各地に散らばり、石仏を始めとする彫刻作品を残した。活動に取り組む姿勢は芸術家さながらであったとも、あくまでも職人であったとも言われる。高遠石工は18世紀が最盛期だったが、明治になり廃れた。 現在、高遠石工による作品は地元の伊那谷周辺に多く残され、安曇野に多い石像道祖神も、その多くは高遠石工の手によるものである。その他にも首都圏や東海・近畿、山口にまで散見されている。 伊那市高遠町の建福寺には西国三十三所観世音をはじめとして多くの作品を見ることができる。 守屋 貞治(もりや さだじ、1765年 - 1832年)- 明和2年(1765年)に信州伊那郡高遠藤澤郷塩供(しおく、現在の長野県伊那市高遠町長藤〈おさふじ〉塩供)で孫兵衛の3男として生まれる。高遠石工の中でも稀代の名工と言われ、68年の生涯に336体の石仏を残している。亡くなる前年の天保2年(1831年)に「石仏菩薩細工」を書き残しており、いつどこで何の石仏を刻んだのかが、その正確な記録から判明している。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
出典 ja.wikipedia.org ↗基本データ
創建・開館:江戸期 代表作・所蔵:守屋貞治の石仏、全国に残る作例 ジャンル:彫刻
出典 ja.wikipedia.org ↗旅の前に知っておくこと
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