概要
日本の銅器生産の9割を占める。加賀藩が鋳物師7人を呼び寄せて始まり、いまは現代デザインの鋳造も担う。
解説
高岡銅器(たかおかどうき)は、富山県高岡市で製造される銅器の総称。1975年(昭和50年)2月17日には経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された。 高岡は現代日本における美術銅器の一大産地であり、梵鐘、銅像などの大型製品から、室内置物、神仏具など細かなものまで、多彩な技術は全国的にも有名である。高岡市内(特に中心市街地、高岡古城公園、金屋町など)の各地で、高岡銅器の銅像などの作品を見ることができる。 高岡銅器は、原型師が像の元となる雛型の造型を行い、それを砂でできた鋳型に置き換え、その鋳型に溶解した銅を流し込み、型を外して研磨・着色・彫金(彫刻・象眼)といった加工を施した後、仕上げを行って製品が完成する。一連の工程は、明治時代以降分業が進んだ。分業の背景には問屋の存在があり、問屋は原料の調達・加工委託・販売・マーケティング・デザイン決定まで幅広く担っていた。しかし、問屋は1951年(昭和26年)のアメリカへの輸出を始める業者の出現後から弱体化し始め、バブル崩壊以降、収入減により新商品開発が滞り、更に売れなくなるという負の連鎖に陥った。問屋とメーカーの垣根は今後も低くなっていくことが考えられる。 原料となる銅と亜鉛の合金である真鍮は、地元地金商が阪神の問屋から仕入れている。 高岡銅器の起源は1609年(慶長14年)、加賀藩主の前田利長が高岡城へ入城し、高岡の町を開いた際、町の繁栄を図るために、1611年(慶長16年)に礪波郡西部金屋村(現・高岡市戸出西部金屋)から、金森弥右衛門ほか7人の鋳造師を現在の高岡市金屋町に呼び寄せたことに始まる。金屋町は千保川を挟んで高岡城下町と向かい合っているが、これは鋳物産業が火災の危険があったためである。 鋳物師らは御綸旨を代々相伝する、諸役を免除される、関所の通過を自由とするなどといった特権を得ていた。金屋町に移った当初、鋳物師らは日用の鍋・釜といった鉄器を作っていたが、後に地域の需要に応える形で銅器生産、多彩な金物生産に移行していった。銅器の生産が始まったのは天保・弘化の頃とされる。 明治時代になると廃刀令により職を失った刀職人(御細工人)が銅器産業に参入、日用品から美術工芸品へと変化した。第二次世界大戦中には地金の銅が不足し、代わりにアルミニウムで軍用飛行機部品の生産に転じた。
出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)
出典 ja.wikipedia.org ↗基本データ
創建・開館:1611年 代表作・所蔵:生型鋳造、仏具と梵鐘、現代の鋳物デザイン ジャンル:金工
出典 ja.wikipedia.org ↗旅の前に知っておくこと
世界の質問箱から、この資料に関係する疑問を3つ。
同じ場所の別の資料
同じ県の美術・工芸
訪問前の確認・参考資料
原資料を掲載しています。営業時間、見学可否、料金、交通は最新の公式情報で確認してください。
この県の工芸・名品
この記述はValue Villageが公開情報をもとに自分で書き起こしたものです。転載はしていません。 対応言語:ja / en
富山県の写真
この資料に関連する地域の参考写真です。掲載施設・商品の写真ではありません。
拡大 ↗
拡大 ↗富山県の Instagram 投稿(公式アカウントより)
この場所に結びついた投稿はまだありません。県の公式アカウントの投稿を毎分入れ替えて表示しています。
