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恵林寺

山梨県 · 甲州市 · 建築

Erinji / 惠林寺

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恵林寺
写真:さかおり (talk / CC BY-SA 3.0 · 出典 ↗
WHAT TO DO恵林寺

夢窓疎石が作庭した池泉庭園。背後の山を借景に取り込み、座敷から一枚の絵として見えるよう構成されている。国の名勝。

WHERE山梨県

国中 · 甲州市

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概要

夢窓疎石が作庭した池泉庭園。背後の山を借景に取り込み、座敷から一枚の絵として見えるよう構成されている。国の名勝。

解説

恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院。山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院である。甲斐武田氏の菩提寺として知られる。 鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。 恵林寺は甲斐における臨済宗の中心となり、古先印元、青山慈永、龍湫周沢や絶海中津らが勅命を奉じて輪番住持となる。後には足利義満により鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられた。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。 戦国時代に恵林寺は武田晴信(信玄)により再興される。天文10年(1541年)には臨済宗妙心寺派の明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん)が28世として招かれる。明叔慶浚は飛騨国の国司・姉小路氏の被官である三木直頼の義兄で、美濃大圓寺(岐阜県恵那市岩村町)の住職であった。明叔慶浚は景堂玄訥の法嗣で、晴信に招かれるまで駿河国の今川義元に招かれ駿府の臨済寺(静岡県静岡市)住職として駿河に滞在していた。明叔慶浚は天文16年(1547年)に武田領国となった信濃伊那郡の那恵寺に招かれるが、飛騨へ戻ると禅昌寺(岐阜県下呂市)を再興した。 天文13年(1544年)には第29世として鳳栖玄梁(ほうせいげんりょう)が入寺し、開山派の僧として初の住職となった。鳳栖玄梁は岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく、甲府長禅寺住職)・希菴玄密(きあんげんみつ)の法兄で、天文15年(1546年)には積翠寺(甲府市上積翠寺町)における晴信主催の連句会にも出席している。 『葛藤集』によれば、永禄6年(1563年)には、明叔慶浚と同様に美濃大圓寺の住職であった希菴玄密が恵林寺と継続院両寺の住職として招かれる。希菴玄密はこれに応じるが、恵林寺に入寺するとすぐに弟子の快川紹喜に住職を譲り、大円寺へ戻った。希菴玄密の甲斐における足跡では、同年5月には大井夫人13回忌の香語を読んでおり、永禄10年(1567年)には武田家御一門衆の穴山信君の求めに応じ、信君の父である穴山信友の肖像に讃文を寄せている。 永禄7年(1564年)には武田氏により寺領が寄進された。

出典:Wikipedia(CC BY-SA 4.0)

出典 ja.wikipedia.org ↗

基本データ

創建・開館:1330年 建築・作者:夢窓疎石 代表作・所蔵:夢窓疎石の庭、武田信玄の墓所、四脚門 ジャンル:建築、野外・ランドアート

出典 ja.wikipedia.org ↗

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